付喪神

 

日本では長い年月を経た道具には付喪神が宿り、人をたぶらかすという言い伝えがあります。古い物を売ることを生業としておりますと、時折、そのようなご質問を受けることがあります。私は霊感はない方だと思いますが、動物的勘は比較的働く方だと思っております。

モノに何か違和感のようなものを感じるということは滅多にないことですが、明らかに「これアカンヤツ?」というモノは年に数回ほどは当たります。それが売る前にわかればお焚き上げ等になるのですが、入手経路を知っているので、稀に売ってから分かる場合もあります・・・。大抵すんなり収まらない。確率的にヒトガタの物、信仰系は多い気がします。少々怖いことを述べましたが、心配はいりません。

「愛情を注いで大切にしてください。」それだけです。そうすればけして悪さはしない。(と思います。)

つくづく感じるのは「モノ」を通じて見えるのは「人」です。

昔先輩が申しておりました。

「モノ」はけして嘘をつかない。嘘をつくのはいつも「人」だと。

名言だと思います。

 

画像はずいぶん前に扱ったお気に入りの版画でした。

なんかタヒチっぽい。

メリークリスマス!

 

 

神の眼

 

時折、少々アタマの弱い飼い猫が神の眼をしていると感じることがある。それってどんな眼なのかというとナカナカ説明が難しいのですが、厳しくてなんだか怖くて何を考えているのかワカラナイような眼・・・かなぁ。

ヒトよりも動物の方がよくそんな眼をしているような気がする。何でだろう?

表情筋が発達してないからかな?

ヒトには見えないものを見、聞こえない音が聞こえるからかな?

仏画の仏様も大概そんな眼をしている・・・。

 

執着心

 

仕事柄、時折こう問われることがある。

「あなたは何が好きなのですか?」と。

そんな時は決まって「(メンドクサイので素直に)特にこれと言って好きなモノはないです・・・。」と答える事にしている。すると少々驚かれるのだが、じゃあ、聞くけど「好き」って何なんだ?気に入ったものをため込み、飽きたらポイが「好き」なのか?市場に出てくる品を入手の苦労も考えずに「ゴミだ!ゴミだ!」と罵倒するのが「好き」なのか?私はイイ物しか買わない!というのが「好き」なのか?この世界にいても「好き」という言葉は簡単に出てくる。あきれ果てるほどに…。そして簡単に「好き好き」を連呼する方々程、見てるとまあ、欲が深いように見えるのは私だけなんでしょうか?

モノはどんな時に出てくるのか?全てではないが大概「人の不幸・節目」と密接に関連して出てくることが多い。

時折空しくなる。やりきれない気持ちになることもある。ヒトがモノに押しつぶされる地獄もある。ヒトがいなくなってもモノはそこにあり続けている。残酷なほどに・・・。

「執着心」は「煩悩」を生む。だからあえて「執着心」を持たないようにしている。

時折、心をとらえて離さないモノに出会うこともあるけれども、それを所有しようとは思わない。誰かもっと大切にしてくれる方のもとに行き、幸せになってくれればいいと切に願う。

1000円のモノも100万のモノも私の中では変わらない。

誰かにとっては大切なモノであったことには変わらない・・・。

「執着心」を持たない心は「自由」だ。

 

真に「自由」な急須です。まあ、私のアタマの中みてえだな・・・。

 

新発見?松嶋焼

 

先日松嶋焼なるものを初めて入手しました。

「松島」ではなく「松嶋」の表記です。

作風は萬古焼とよく似ていますが、松島で焼かれていたものなのでしょうか?

さっと調べてみましたが、わかりませんでした。

雰囲気から明治以降の作と推測されます。

ソコソコ長くやっていても見たことがないものというのはポンと突然出てくるものです。      

エイミーワインハウスとマドンナ

 

最近の趣味といえば携帯でユーチューブのMTV鑑賞です。お気に入りはエイミーワインハウスとマドンナです。

この御二方、面白いことにまったく対照的なんですね…。

エイミーワインハウスは抜群の歌唱力を持ちながら、ドラッグ&アル中と闘いながら27歳で他界。一方マドンナは競争の激しいショービジネスの世界で長年女王として君臨。MTVでもステージでも常に観客に最高のものを見せるという信念を持ち、体力維持にも一生懸命。

シゴトに対するスタンスという点ではマドンナは見習うべき点が多いです。

でも、派手ではないけれどもバックバンドの生演奏で本来の歌で勝負しているエイミーワインハウスもとてもイイです。時には泥酔状態でステージに上がり、観客の大ブーイングを浴び、私生活もグダグダだったけれども、なんだかとても人間的です。

何が言いたいのかと申しますと・・・。どっちも好きだということです。

骨董がらみの話じゃなくすみません…。

寫眞は古い絵葉書です。とても印象的な美少女です。

右側の女の子の眼が良いです。

音楽にしてもモノにしても時折、何故か心をとらえて離さないものというものがあるもんです。

それは理屈ではないのでしょう。

  

古書画

 

最近、とある「プロフェッショナル」の言葉になるほど~。と思う言葉がありました。「プロ」とは「いつも当たらずも遠からずの判断を下せるヒト。」なんだそうです・・・。

で、本題。この「当たらずとも遠からず。」というのをいつも身に染みて感ずるのが古書画の世界です。

当店は古書画の入荷が結構多いです。過去の有名、無名の方々の魂のカケラみたいなもんが、集まってくるスポットとなっております。

世代交代。住宅事情。興味がない。何が書いてあるのかよくわからない。誰?などなど・・・。

季節ごとに床の間の掛物を変えるなんていう時代ではなくなったのだろう・・・。

書画の真贋の見極めは難しいですね。

支度でおおよその判断はつくのですが、最後の拠り所となるのはやはり、「パワーの有無」です。

で、パワーとは何か?一言で言えば「カッコエ~のかカッコワリィのか」です。

イイもん(本物)はカッコエ~です。わ~カッコエ~。と間髪入れずに思うのはパワーがあります。

それはやはりイイもんだったりします。

イイんだかワルインだかよくワカラナイモノ…。というのはやはりモヤモヤします。

ダメなもんはやはり一目でカッコワリィです。

たまに「そっくりさん」なんてのも出てくるからマギラワシイ・・・。

有名な偉人の墨蹟は人柄までもが伝わってきます。

 

吉野の桜


四日ほどお休みをいただきまして、高野山、奈良に行ってきました。

吉野の桜です。

桜は満開を過ぎ、新緑とのグラデーションがまた美しく感じられました。

日本には美しいものがたくさんある。

ここ宮城県にもたくさんある。

それに気づいたり感動したりする心を持ち続けよう。



桜を見た回数

 

桜の季節が近づきました。

この時期になると、かつてとある骨董屋さんが言った言葉を思い出します。

「人生などあっと言う間だ。人生たかだか80年。80回しか桜が見られないんだ。たった80回だぜ。」

だから精一杯生きろということなんだろう・・・。

最近何故か日本一の桜を見ておかねば・・・。という気になり、近々日本一の桜を見に行きます。

桜は好きな花です。

春は一番好きな季節です。

 

学び

 

桜ヶ丘での9ヶ月の営業が終了しました。

9ヶ月間色々なことを考えておりました。

モノは怖い。

お金は怖い。

何よりも生きている人間が一番怖い。

それは誰よりも痛感してきたことでもある。

あらゆる人間の側面に驚かされる一方で、この場所に長いこと根を張って一生懸命に生きている方々の姿に触れるにつけ、やはり自分は「修行」がまだまだ足りないんだ・・・。などと思う。

人間やはり捨てたもんじゃない。

戻るにあたり、様々な方からアドバイスや激励をいただきました。

全ての出来事には意味があるのだ・・・と思う。

ここに来たのもやはり何かの「御縁」だったのだろう。

 

天網恢恢疎にして漏らさず

 

桜ヶ丘での営業があとわずかとなりました。

桜ヶ丘では不思議と観音様にご縁がありました。

この9ヶ月は観音様がくださった休暇みたいなもんだったのかもしれません・・・。(その割にはナカナカ多忙であった。)

観音様は「大慈大悲(広大無辺な仏の慈悲)」を本誓とする仏様なのだそうです。う~ん。私にはよく分からんなァ。

 

やはり。

ダメなもんはダメ。

イヤなもんはイヤ。

オカシイことはオカシイ。

黒は黒。

白は白。

にしか見えないし、感じられない。

 

八幡町の旧店舗跡地に新しい建物が経ちました。

歴史ある建物が大きく外観を変えてしまうというのは、それに携わる方々も多くの心理的負担を担いました。

皆、心労が重なり大変な思いをしておりました。

それでも皆、お互いを思いやり、別れを惜しみ、助け合っていました。

私もここを離れる時は涙が出ました。

 

ここで長年商売をやってきた当事者にしかわからない「想い」もあれば

「やむにやまれぬ事情」もあります。

それらを全てのみ込んで離れねばならなかったこと…。

 

「思いやり」の気持ちを持たずして

成り立つ事、得るものはないと思います。

 

いろんな想いが詰まった場所でした。

春昼堂がいなくなった後も、近隣の方々に多くの問い合わせがあったことを知らされました・・・。

そして「早く戻っておいで!」と。

あと少しでここに戻ります。

 

虎は千里を行き千里を帰る

 

「千人針」です。

もはや説明不要・・・かな?

ヒトは「死にに行く」ような時はやはり超越的な何かにすがりたいんだと思います。

かく言う私も何度も「ヘタすら死ぬな・・・。へへへ・・・。」などと思いながら「死装束を纏った気持ちでコトに当たったこと」が何度かございました・・・。

そんな時は今まで七転八倒していたのが、嘘のように

なんといいますか・・・。観念したというのか・・・。とても静かな心持ちになるのでございます。

大勝利など望まない。無事に帰ってくれればそれでいいのだと。

強い願いが超越的なパワーを持つということはやはりあるのかもしれません。

 

soul!

 

仕事柄、あらゆるモノを扱います。

また、あらゆる依頼も飛び込んできます。

先日、神像の依頼がありました。

特別な方からの依頼ではありません。

見た目、フツ~のおばちゃんからの依頼です。

恐れ多くも「神様」を扱うトコなんて神社か骨董屋位であろう・・・。 何か事情があるらしく、何度も足を運んでいただいており、どうしても必要なものらしい・・・。

時折、自分が扱っているモノがただのモノではなく、何かこう「魂のようなもの」であると感じることがあります。

そう思うとなかなかいい加減な事ができなくなるもんです・・・。

そもそも何故、不精進者の自分が今、そのような役割を担っているのか?

なんだか人知を超えた何かに試されてる気がしますね。

「神様」のオーダー。

お時間をいただきましたが、なんとか収められそうです。

 

 滅私

 

お盆が近いです。

今年はお盆休みをいただくことになりました。

とは言っても、やはり数日はシゴトになりそうです・・・。

最近、何を見てもあまり感動することがない自分がおります・・・。

これって職業病なんでしょうか・・・?

閑静な住宅街に引っ込んだにも関わらず、思いの外シゴトの依頼は増えておりまして、

日々、生きるか死ぬかの冥府魔道の住人でいながら、人様にあてにされ、感謝され、喰いもんまで頂いているというのは幸せな事なのだろうと思います。

仲介者としてのシゴトはいかに「己を滅するか」というところにあるように思います。

この場合の己とは好み、私利私欲、煩悩etc・・・です。

時折、正気に返ったように「自分って何?」などと自問自答を繰り返しますが、

答えは出ません・・・。

この先に見える物って何だろう???

心が揺さぶられるようなモノやヒトに出会いたい・・・。

いつもそう思っています。

 

 八幡町

 

移転して早、1ヶ月半です。

「毎日が闘いであった」八幡町時代とはうって変わり、野良猫ウォッチングに勤しむ日々です・・・。

今日、八幡町のお客様から電話がありました。

「おたくがいなくなって寂しい。更地になった土地を見るとあなたたちがどんな思いでこの場所を後にしたかと思うと切ない。元気でやっているの?」と。

涙が出るほど嬉しかったです。

八幡町は両親も故郷も何もかもなくしてしまった自分を受け入れ、育ててくれた第二の故郷であり、日々の生活の糧を得る大切な場所でもありました。

四季折々、様々な行事が行われ季節の移ろいが感じられる町でした。

皆様にとても良くしていただきました。

私も寂しいです。

そして悲しいです。

 

悟ってみれば佛も下駄も同じ木の片

 

先日こんなこけしが入荷しまして、「番頭」と共に「可愛いよなァ。これ」と

惚れ込んだこけしです。

早々に引き取り手が現れ、嫁ぐことになりましたが、手元に置いときゃよかった・・・と後悔。

でもモノとの出会いも別れも「縁」ですからね。

やはり行くべき方の元に行ったのでしょう・・・。

でも、やはり、少し寂しかったなァ・・・。うん。

 幻の仙台漆器

 

仙台の漆器と言いますと、玉虫塗り・仙台堆朱・木地呂塗りなどは割と有名ですが、

仙台漆器となると「何?それ?」という感じなのではないでしょうか?

かく言う私もその存在を知ったのはつい最近なんですけどね・・・。

これが仙台漆器です・・・。

茶櫃です。仙台通宝です。

・・・。

この手、何度か扱ってたわ・・・。会津塗りあたりじゃないかと思っていた・・・。

刀の鞘の石目地塗のようである。

その歴史は伊達藩の時代に遡るくらい由緒あるモノらしいですよ・・・。

こちらは昭和初期頃のモノです。

やはり刀の鞘も作ってたのかなァ・・・。

 

 大正~昭和初期の帯

 

オモシロイ柄の帯が入荷しました。

首馬柄です。

どんな時に締めたものなのでしょう???

あまりにも個性的すぎたせいか着用感はありません。

特注品だったのでしょうか?

馬の顔が少しコワイ・・・。

 

ゆるキャラの土人形

 

金太郎と熊です。

山形県、鶴岡の瓦人形です。

熊がどことなく「くまモン」に似ています。

金太郎と熊は相撲をとっていたのではなかったんでしょうか???

前面は握手、後面は腰に手を回しているのです・・・。

二人は一心同体・・・。

どうしてこのようなモノが世に出たのか???

「骨董でございまする」的なモノを易易と超えて、

もはや次元を超越している感がある・・・。

「固定観念」なるもののなんとツマラナイことか。

 

勲章の価値って何だろう?

 

今日はずっと書きたいと思っていたテーマです。

重いテーマになります。

写真は支那事変従軍記章です。

今、売値で1000円位でしょうか?勲八等白色桐葉章なんかと共に割と多い記章です。

遺族の元に遺品と共に送られてきたなんていうエピソードもございます。

「時代」がそうさせた、またはそうせざるをえなかったのでしょう・・・。

「命」と引き換えの「値」

仕事柄、モノの「値」を通じて見える「真実」もございます。 

ハイロウズの唄に「天国なんかに行きたくねェ~!神様なんかに会いたかねェ~!」

という歌詞がありますが、私もそう思います・・・。

天国も地獄もこの世界にあるんじゃないでしょうか?

死んで「花実」が咲くじゃなし。

 

戦闘機になるはずだったジュラルミンの片口

 

たまにジュラルミン製の火鉢ややかんを見かけます。

取り立てて「見所」もなく、「ダサい」のであまり人気がない品です。

戦後あたりに作られたものが多いようです。

それには理由がありました。

戦後、GHQの航空産業の禁止により余剰となったジュラルミン材が市場に多く出回りました。

金属製の物資が不足する中、あるものは鉄道車両の一部となり、あるものは家庭用品に

姿を変えていきました。

「用の美」とは無縁のジュラルミンはどこかもの悲しい・・・のである。

 

山越阿弥陀図

 

山越阿弥陀図です。

山の間からニョキッと阿弥陀様が現れております。

骨董屋などというシゴトを生業としてますと、とにかくモノと金に追われまくるという

無限地獄みたいなもんに陥ります。

信仰の対象物にさえ、「値」をつけ日々の糧にする。 

でもシゴトなんだからやらなきゃいけない。

「モノの持つチカラ」にねじ伏せられんように、

常に「気」を保っていないといけないのデス。

これを入手した方はとても喜んでくださいました。

えがった、えがった・・・。

モノと呼ばれるもんはたくさんあるけれど、一番精神性が感じられるのは

やはり「仏教美術」ですね。

仏教美術って不思議と「所有者」を選ぶんですよ…。

例え「ひととき」でも自分の元にやってきたというのは

「お前が俺の行き先を決めるんだよッ!」と試されてるんでしょうな・・・。

 

 はて?どちら様・・・?

 

先日入荷した品です…。

昭和初期の頃の物で、どうやらフツ~に市販されていた物みたいです・・・。

南極か北極に到達したアメリカ人(推測)です・・・。

可愛くありません。少しコワイです。

雪だるまから木ィ生えてるし…。

 

 

 

 

 

 啄木かるた

 

昭和14年の「少女の友」付録の啄木かるたです。

啄木の句に中原淳一の絵です。

「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」

やはりお金は無いよりあった方が良い・・・と思います。

でも何より健康で、平穏無事に暮らせることが「幸せ」というものなんでしょう・・・。

 

桃源郷

 

八幡町の文殊堂近辺にあった三瀧温泉の絵葉書です。

すぐそばに桃源郷みたいな場所があったんですね。

かくいう私メも自分なりの桃源郷を見てみたくて、毎日七転八倒しながら、

生きておりますが、なんか桃源郷っていうのは「心の内」にあるんじゃないかな~?

なんてことを思いました。

毎日モノと向き合う作業は「闘い」であり、「修行」みたいなもんです。

 

It‘s CRAZY!!!(馬鹿塗り)

 

会津か津軽の馬鹿塗りの花台です。

これを作ってる最中ってどんな心境なんでしょう…?

普段は地道にお膳とかお椀を作っていたんでしょう・・・。

爆発しちゃったのかなァ???

現代アートに通じる感覚です。

 

 

蛇文字(山岡鉄舟の書)

 

幕末の剣・禅・書の達人である山岡鉄舟の書です。

独特の蛇が這ったような文字。大概解読不能です…が何か好きです…。

その行動力は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と言わしめたそうです。

書は人から頼まれれば断らずに書いたそうで、かなりの墨蹟が散見されます。

市場でも時折見ますが、諸先輩が「こりゃあダメだよ…。」

なんて言う声もちらほら聞きますから、

贋物も出回ってるのかなァ・・・。

結跏趺坐のまま絶命・・・って鉄門海上人みたいじゃないですか…。

 

木型子可(コケーシカ)って知ってますか?

 

先日私メが不在の日に、鎌倉から沼田元気さんとういう木型子可(コケーシカ)の普及に努めている方がいらっしゃいました・・・。

お会いしたかったな~。

コケーシカとはロシアのマトリョーシカのこけし版で、

マトリョーショカのルーツは日本のこけし(組子式七福神)なんだそうです。

面白いですね。

 

仙台市電

 

仙台市電の写真集です。

八幡町(お店の前)も走っていたんですよ。

仙台市電は昭和51年3月31日まで走っていました。

懐かしい光景です。

 

 

 題目銭(聖と俗)

 

 大正時代の古い財布の中から古い保険証だとかレシートだとかお買いもの

 メモだとかが出てきました。

 その時で時が止まっているのです…。

 モノは語ります。

 時代を問わず、ヒトは買い物をしたり、万が一のことを考えて保険に加入したり、

 一生懸命生きてきました。

 それは今も変わりませんよね。

 生きるとはお金の出し入れの連続です。

 だから働く。一生懸命働く。

 欲があるのは生きてる証拠。

 お金の中に仏様がおります・・・。

 聖と俗。

 

 入魂のおひつ

 

 入魂の東北の「おひつ」です。

 木地師さんが作ったと思われる江戸末~明治期のモノです。

 こんなかっけ~「おひつ」が入荷したのは初めてですね~。

 廃棄物寸前のキワどい「美」です。

 「モノ」って何ですか?

 「美」って何ですか?

 「骨董なんてよぐ分がんないわよ!気に入ればいいじゃな~い!」

 と言い放ったおばちゃんにハンマーで頭殴られたような気分…。

 あ、そっか・・・。

 

 こけし

 

 私メはこけし工人になりたいと思ったことが過去にございました・・・。

 「喰えないからやめろ!」と工人さんに諭されトボトボと帰ったことがあります。

 随分昔の話ですヨ。

 その時はこけしを売る立場になろうとは夢にも思いませんでした。

 工人手帳を熱心に眺めていますとあることに気づきました。

 こけしは作者に似てるんです。

 ビックリ~!

 

 

 

 新春はぶっかけ唐津の寿で

 

 江戸初期のぶっかけ唐津の皿です。

 見込みに寿の文字が書かれています。

 業者にしかウケナイであろう品…。

 何を祝って作られた皿なんでしょうか?

 その割にはストイックです。

 ぶっかけてるから日の目を見なかったのかもしれません…。

 それでも堂々としています。 

 

 

 

 六字名号(南無阿弥陀佛)

 

 六字名号です。これは伝・空海の筆跡の木版(江戸期)です。

 空海が南無阿弥陀仏とはこれいかに?

 江戸期~明治時代の版画の絵札は市場に「まとまって出る」ことが多いです。

 大概決まって「まとまって出る」というのが不思議ですね~。

 いろんな神様・仏様がいるので驚きです。

 信仰する神仏の数だけ家が栄えた・・・のかもしれません。

 まだ市場的価値は比較的低い品物ですが、よく見てますとなかなかオモシロイですよ。

 いたるところにヒトは神仏の姿を見ていたことがわかります。

 何かにすがれば救われるわけではなく、

 神仏と対話し続けると見えてくるものもあるのかもしれません。

 モノとも対話し続けると会話ができるようになります。(たぶん・・・)

 いわばコールアンドレスポンスの関係・・・。

 

 後日、博識のお客様から「何故まとまって出るのか?」のお答えをいただきました。

 地主、商家等の主の中には地域社会の「講」を司っていた方もおられたそうです。

 その為、寺社仏閣でもないところに「まとまってある」のだそうです。

 現代以上に「信仰」が身近なものであったのでしょう。

 う~ん。謎が解けたっ!

 

 摩利支天

 

 江戸末期~明治時代の摩利支天像です。

 猪にまたがり手には武器を携えております。

 ちなみに私の干支も猪なんですね・・・。

 猪って猪突猛進というイメージなんですけど、「突然、方向転換する」動物でもあるんですヨ。 

 摩利支とは陽炎のようなもので、実態がない。故に傷つかない。

 だから武士の護法神として信仰されてきました。

 ルーツは女神だったはずなんですが、どう見てもオッサンですね・・・。ハイ…。

 この摩利支天像はこの先、多くの方々にとりましての護法神となります。

 神も仏も信じなかった私メがこのようなシゴトをするとは思いませんでした。

 神仏とは「必要」とする者の前に現れる・・・んですかね。

 善人なほもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。

 親鸞聖人の言葉です。

 東北の地に護法神の御加護あれ!

 

  癒し系の魔除けです・・・

 

 最近入手した木彫の猿です・・・。

 この猿、「わっ!イラネ!」とよけて通っているうちに

 やはり当店に来てしまったんですよ・・・。

 実はこの猿3度見てまして、1度目は岩手の市場に盆に流れておりました。

 手にとっては見たものの、素人彫り+古色つきという代物に声は出ず・・・。

 2度目は福島の市場でゴミと共に盆に流れてきました。

 「まだ売れてないんだな。あの猿・・・。」

 3度目も福島の市場にて遭遇・・・。

 ついに買ってしまいました…。

 素人彫り+古色つきという代物…。

 お店に並べるのは躊躇しました。

 でもやはりめちゃくちゃ可愛いんですよ…。

 変な魅力がある。

 「俺はここに来たかったんだっ!もう盆に乗るのはヤダネ~。へへへ…。」

 と言っておりました・・・。

 行くとこがね~んならここにいろっ!

 店の魔除けとして採用することになりました・・・。

 

 後日談ですが、わざわざこの猿に会いに来てくれたお客様がおりました。

 不思議なもんですね~。

 この猿、魔除けから仙台猿四郎に昇格しました…。

 

  奥の細道

 

 松尾芭蕉の奥の細道…。

 芭蕉がお弟子さんとフラフラ東北を歩き回り、俳句を詠んだ地味な作品・・・。

 と私は思っておりました・・・。

 なんとなく縁あって「奥の細道」に触れる機会があり、この松尾芭蕉という人物が

 ただならぬお方であることを知りました。

 なんだか怪しいんですよ・・・。

 東北をフラフラ歩き回るという行為自体が…。

 松尾芭蕉、隠密説というものがあります。

 松尾芭蕉は伊賀出身で、奥の細道の行程にかなり不自然な箇所があり、

 当時の中高年では考えられぬ程の健脚であったこと、多くの関所を難なく通過していること、

 旅費がどこから出ていたのか?だとか、

 俳句を詠むためというよりは仙台藩の要所(石巻港、瑞巌寺)を熱心に見て回ったとか、

 そこではほとんど俳句を詠んでいないことだとか、晩年弟子の曽良が幕府の役人

 になっただとか。

 晩年、芭蕉はこんな俳句を残しております。

 「秋深き 隣は何をする人ぞ」

 何が言いたいのかよく分からない俳句です。

 隣人(私)は何者か?何者だったんでしょうね~?

 でも、そんなことど~でもいいじゃん。確実なのは秋は深まり、冬がくるってことだ。

 みたいな意味なんじゃないでしょうか・・・?

 東北はもうすぐ冬です。

 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる。」

 隠密だろうがなんだろうが、芭蕉は旅が好きだったんですよね。

 

 南部鉄器とセイコー社のコラボ・・・

 

 昭和初期のセイコー社の時計です。

 発想がオモシロイです。

 外枠が南部鉄器で出来とるんですよ。

 東北には世界に誇れる職人さんが作った工芸品がたくさんございます。

 未曽有の震災を経験した東北の人々は各々が何らかの形で被災し、

 「大切なもの」と向き合うことともなりました。

 南部鉄器職人は南部鉄器を作り続け、

 木地師はこけしを作り続け、

 農家は米や野菜を作り続け、

 漁師は漁を続けます。

 この時計の時間は止まったままなんですが、

 時間は確実に未来を刻んでいます。

 

 昭和の遺物・・・

 

 昭和レトロ・・・。

 時折、「なんじゃこりゃ?」という意味不明な品物を目にすることがございます。

 先日はボーリングのピンに温度計がくっつき内部は貯金箱になっているという不思議な

 物体を目にしました・・・。

 高度経済成長期に「売らんかな」を最優先して考案された品の中には、前衛芸術もびっくり!

 なデザインがございます。

 作り手は「イイ」と思って作っているハズで、そういったモノがひょっこり

 今でも出てくるというのは買うヒトがいたからで・・・。

 「なんじゃこりゃ?誰も買わね~ぞ!」などとヒトリ突っ込みしながらも、

 どこか癒されている私です…。

 

 百万遍の数珠 (極楽浄土への道)

 

仏教美術・・・なんでしょうか?あまり出ることはありません。

多くの方々が死者の「成仏」を願い「南無阿弥陀仏」を唱えながら回していく数珠です。

人々の祈りの気持ちがこもった品です。

ヒトは一人では生きては行けません。

死後も血縁者や友人、知人の手を借り「極楽浄土」へ送ってもらうという「儀式」に用いられます。

「極楽浄土」って一体どこにあるのでしょう? 

 

 

 

 

 

 襤褸(らんる)

 

私は襤褸が好きです…。売れたためしがナイけど…。

「滅びの美学」とでも言うんでしょうか…?

「骨董屋」などという因果な商いをやってますと、ヒトが最終的に行き着くところは

「モノはいらない」というところに行き着くような気がしております…。

「滅びの美学」なんて言うと「武士道」みたいですが、

襤褸にはそんな「武士道」を感じるんですよ…。

でもモノはヒトの生活を便利にし、豊かにもします。

 

 

 

 

「古道具との対話」展で展示した「裂き織り」です。

ヤケ、破れがあり商品価値としては×なモノでしたが、展示して一番化けたモノでもあります。

欠点が美点に容易に変わるというイイ例です。

その逆もしかり。

美点だって欠点になる。

ヒトの価値観なるものがいかに「曖昧」であるかです。

一番モノがみえなくなってくのは実は骨董屋なんじゃないかと思うこの頃…。

「とことん無様」というのは逆に崇高さを感じる。

 

「平清水の片口」

これに何故か最近はまっています・・・。

どこぞのニンゲンコクホーの白磁より美しいと思うのは私だけでしょうか・・・?

何の装飾もない潔いモノというのは実は「コワイ」んです。

使い手の心が素直に表れるからです。

でもニンゲンコクホーとかチューゴクビジュツだとかも扱わんと生活が成り立ってゆかんのでしょう・・・。